幼少期
私は1957年生まれの64歳(まもなく65歳)です。
2歳半の頃(1960年)にポリオ(脊髄性小児まひ)にり患しました。
ポリオウィルスとは、運動神経が侵され、手遅れになればなるほど後遺症が重くなり、場合によっては命を落とす可能性もある怖しい病気です。現在ではワクチンの普及によって、ほとんど制圧されましたが、今も一部の地域にはり患者が発生しています。
私がり患した当時は、日本における最後の流行期でした。私の左足には障害が残りましたが、幸い学校も含め普通の生活を送りました。しかし、心の奥底で足の障害は私の人生に暗い影を落としました。祖父は『お前は幸せの悪い子』と言っていましたが、私にはそんな言葉は何の慰めにもならず、『なんで自分が』という思いしかありませんでした。
結婚と信仰生活
29歳の時、主のお導きによって妻とめぐり逢いこの礼拝堂で結婚式が執り行われました。結婚前に義務感で数回礼拝に出席しましたが、結婚後は礼拝に行くこともなく、毎主日に妻が少し寂しそうに『行ってきます』と言う後姿を少し後ろめたい気持ちで見送ったものです。やがて妻が長男を身ごもりましたが(3年後に授かった長女の時もそうでしたが)、妊娠初期が非常に不安定で妻は入院しました。私は何かにすがる思いで教会の礼拝に足を運びました。これが求道生活の始まりです。
ある日の礼拝で、次の聖書箇所に出会いました。
『弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』(ヨハネによる福音書9:2-3)
それまでの『なんで自分が』の問いに対し、これほどはっきりと答えを示してくれた言葉はありませんでした。妙に納得したものです。この時から私は主の大きな力を信じるようになったと思います。
わたしにとって足の障害は、パウロの語る「一つのとげ」です。私の一番好きな聖書箇所を読みます。
『思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れさせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』(コリントの信徒への手紙二12:7-9)
パウロは三度主にこのとげを去らせてくださるよう祈りましたが、私は三度どころではありません。眠るたびに『目が覚めて障害がなくなっていたら』と思ったものです。しかし、この箇所に出会ったことは私にとって大きな慰めとなりました。
1991年に洗礼を受けましたが、私は本当に弱いままでした。必ずしも良き夫ではなく良き父でもなかったのでは。40歳の時、激しく落ち込み、主に心から懺悔し、『できるならもう一度生かして下さい』と祈りました。その時、確かに私の肩の重荷が軽くなり、『今主がここにいて下さる』と感じました。
奇跡の出来事
その数年後、2001年(43歳)の夏、私たち家族は義理の妹の家族と徳島県の川にキャンプに行きました。
私は息子と川釣りの準備をし、娘と二人の姪は川遊びをしていました。前日の降雨で川は増水しており、川の中央にはロープが張られていました。
姪の一人がロープをすり抜け下流へ流されました。私は咄嗟に飛び込み姪の場所まで泳ぎ着きましたが、足が立たないのです。私は姪を下から押し上げるようにしていましたが、流れる水の力は強く、やがてバランスを崩し水底に引きずり込まれました。
『走馬灯のように』とはよく言ったもので、多分1分間くらいだったのでしょうが、呼吸ができず苦しくなっていく中、私の人生がフラッシュバックしました。もう駄目だと思った時『神さま、御許に参ります。家族をお守りください。』と祈って意識を失いました。
意識が戻った時、私は川の中央の大きな岩の裏に仰向けで浮かんでいました。岩の周りの水の流れによるものでした。私にとっても家族にとっても、それは正に奇跡でした。流された姪も無事で、私は病院のベッドの上で妻と共に神さまに感謝の祈りをささげました。
このことを境に、私は死の恐怖をあまり感じなくなりました。
生きるも死ぬも主のため、主は私に『お前にはまだ私の用があるのだよ』と言われたように思いました。私のような者にも、きっと生かされている意味があると信じています。自分に何ができるのか、主が私に何をせよと言われているのか、今も問い続ける毎日です。最後に聖書を2個所読みます。
『だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで充分である。』(マタイによる福音書6:31-34)
『だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。』(コリントの信徒への手紙二4:16-18)
ですから、私は必要以上に思い煩わず、落胆しません。教会には課題が山積しており、将来の自分の生活も含め、不安を感じないわけではありません。
しかし、私が弱いときにこそ主が近くにいて下さること、必要なものはすべて主が御存知で備えて下さることを固く信じて、肉の思いではなく霊の導きによって歩むことができれば、これ以上の幸いはありません。
